どんな人生にも意味がある2
院長です。
ビクトール・E・フランクル「夜と霧」
のテキストの内容からです、、、
フランクルは収容所の中で次のように
自分に言い聞かせていたそうです。
「人生の意味は無要件のもので、
いかなる状況においても
それは失われることはない。
たとえ、
苦しみが取り除かれない時でも、
その苦しみから何らかの意味をつかみ取る事が
出来るはずだ。
さあ、ビクトール、今度はおまえ自身がそれを生きる番だ。」
フランクルはこのように自分に命じて
収容所での悲惨な経験をみずからにとって、
意味のあるものへと転換していったのです。
「どんな時も、人生には意味がある。」
この人生のどこかに
あなたを必要とする「何か」がある。
あなたを必要とする「誰か」がいる。
その「何か」や「誰か」は、
あなたに発見され実現されるのを待っている。
私たちは常にこの「何か」や「誰か」によって必要とされ、
「待たれている」存在なのだ。
その「何か」や「誰か」に目を向けましょう。
の「何か」や「誰か」のためにあなたに出来る事は
何があるでしょうか。
だから、
たとえ今がどんなに苦しくても、
あなたは全てを投げ出す必要はない。
あなたが投げ出しさえしなければ、
いつの日か、人生に「イエス」と
言うことの出来る日が必ずやってくる。
あなたがたとえ、
人生に「イエス」と言う事が出来なくても、
人生のほうからあなたに「イエス」と光を
差し込んで来る日が、いつか、必ずやってくる。
又、フランクルが言うには、
人間は人生から問いかけられている存在である
人間が人生の意味を何かと問うに先立って、
人生のほうが人間に問を発してきている。
だから人間ははんとうは、
生きる意味を問求める必要なんかないのだ。
人間は人生から問われている存在である。
人間は生きる意味を求めて人生に問を発するのでなく、
人生からの問に答えなくてはならない。
そしてその答えは、
人生からの具体的な問いかけに対する
答えでなくてはならない。
私達人間がなすべきことは、
生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、
人生の様々な状況に直面しながら、
その都度、
「人生から問われていること」に全力で答えていくこと、
ただそれだけである。
NHKテレビテキスト2012年8月 「100分de名著」より